2009年2月23日月曜日

ノイズ

 チリ紙交換車は、最大ボリュームで「お騒がせしてすみません」といいながら、雑音をくりかえしふりまいていく。左右を問わず、政党の宣伝カーも、チリ紙交換と同様に、「朝早くからごめんなさい」といいつつ、聞きたくもない無内容なえんぜ津を私たちの耳の中に、暴力的にたたきこんでいく。それらを聞く人々も、こうした音の暴力を当然と考えて、反対の声をあげようとしない。

 きたない風景や事物があれば、見ないですますことができる。眼は閉じることができるからである。特別の場合を除けば、見ることを強制することはできないし、私たちも見ることを拒否できる。見たくないテレビ番組があれば、スイッチを切ればよい。新聞は読みたくなければ、放り出せばよい。

 しかし、雑音や騒音は、そうはいかないのだ。耳をふさぐことはできるが、音の暴力は手で耳をふさぐことなど問題にはない。外からとびこんでくる音に対して、人間は無力なのである。聴覚への暴力は、他の感覚への暴力以上に強力である。だからこそ、権力者はしばしば音の暴力性を政治的に利用することを工夫してきたのである。呼びかけと誘惑は、音を媒体としてのみ成立する。暴力的にして魅惑的な音は、ヒトラーの演説であろうと、広告の反復音であろうと、もっとも無防備な聴覚を狙うのである。

 (『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司)

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