チリ紙交換車は、最大ボリュームで「お騒がせしてすみません」といいながら、雑音をくりかえしふりまいていく。左右を問わず、政党の宣伝カーも、チリ紙交換と同様に、「朝早くからごめんなさい」といいつつ、聞きたくもない無内容なえんぜ津を私たちの耳の中に、暴力的にたたきこんでいく。それらを聞く人々も、こうした音の暴力を当然と考えて、反対の声をあげようとしない。
きたない風景や事物があれば、見ないですますことができる。眼は閉じることができるからである。特別の場合を除けば、見ることを強制することはできないし、私たちも見ることを拒否できる。見たくないテレビ番組があれば、スイッチを切ればよい。新聞は読みたくなければ、放り出せばよい。
しかし、雑音や騒音は、そうはいかないのだ。耳をふさぐことはできるが、音の暴力は手で耳をふさぐことなど問題にはない。外からとびこんでくる音に対して、人間は無力なのである。聴覚への暴力は、他の感覚への暴力以上に強力である。だからこそ、権力者はしばしば音の暴力性を政治的に利用することを工夫してきたのである。呼びかけと誘惑は、音を媒体としてのみ成立する。暴力的にして魅惑的な音は、ヒトラーの演説であろうと、広告の反復音であろうと、もっとも無防備な聴覚を狙うのである。
(『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司)
2009年2月23日月曜日
音の暴力性
都市化の進展は、日常生活のなかにおびただしい雑音を引き入れた。一昔前までの人間ならとても耐えられようもない音でも、現在の人間なら耐えることができる。静かな農村や地方都市で暮らした人間は、大都会へ出てきたばかりの頃には、雑音ノイローゼにかかる。それもしばらくすると、都会の音に慣れて、雑音に対する耳おの許容度が高まる。
都市は、人々に雑音に対する忍耐を強制する。人々は強制的に、しばしばそれと知らぬ間に、さまざまの音に慣れていかなければならない。雑音に慣れるとは、音の暴力性になれることである。音の暴力性になれることは、音以外の物がもつ暴力性にも慣れることである。こうして、都会生活者は、暴力に対する過敏な反応を失って、どこまでも暴力的な現実を受動的に受け入れていくようになる。このような暴力不感症は、極めて恐ろしいことではあるまいか。
自動車公害が非難され、自動車がひきおこす殺人や騒音の弊害が告発されている。しかし、そうしたい告発の声もむなしく虚空に消える。自動車事故で人が死ねば、当事者も傍観者も一瞬はシュンとする。しかし、それで終わりだ。自動車天国となった日本列島では、人々は非業の死に慣れてしまっている。非業の死への不感症の基礎には、音の暴力性への不感症があるのだ。
生活のなかからできるかぎり不必要な音をなくそうとする健全な感性が生きていたとすれば、これほど自動車文明が栄えることはなかったであろう。西欧に比べて交通網が非常に発達しているにもかかわらず、個人所有の車が不必要なまでに多い日本の現状は、きわめて異常である。この異常さを支える理由は多々あるだろうが、そのうちでももっとも大きく、しかもしばしば忘れている理由は、音の暴力性への無感覚である。
(『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司)
都市は、人々に雑音に対する忍耐を強制する。人々は強制的に、しばしばそれと知らぬ間に、さまざまの音に慣れていかなければならない。雑音に慣れるとは、音の暴力性になれることである。音の暴力性になれることは、音以外の物がもつ暴力性にも慣れることである。こうして、都会生活者は、暴力に対する過敏な反応を失って、どこまでも暴力的な現実を受動的に受け入れていくようになる。このような暴力不感症は、極めて恐ろしいことではあるまいか。
自動車公害が非難され、自動車がひきおこす殺人や騒音の弊害が告発されている。しかし、そうしたい告発の声もむなしく虚空に消える。自動車事故で人が死ねば、当事者も傍観者も一瞬はシュンとする。しかし、それで終わりだ。自動車天国となった日本列島では、人々は非業の死に慣れてしまっている。非業の死への不感症の基礎には、音の暴力性への不感症があるのだ。
生活のなかからできるかぎり不必要な音をなくそうとする健全な感性が生きていたとすれば、これほど自動車文明が栄えることはなかったであろう。西欧に比べて交通網が非常に発達しているにもかかわらず、個人所有の車が不必要なまでに多い日本の現状は、きわめて異常である。この異常さを支える理由は多々あるだろうが、そのうちでももっとも大きく、しかもしばしば忘れている理由は、音の暴力性への無感覚である。
(『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司)
2009年2月19日木曜日
溺れる子供。泳ぎ自慢の大人。
もう、だいぶ以前のことになったが、なぜ人を殺してはいけないの?という中学生の質問を、ある文芸雑誌が大特集で取り上げていた。質問は、神戸の少年殺人事件を扱ったテレビ番組のなかで、ひょいと出たそうである。そこに居合わせた賢そうなインテリが、誰も質問に答えられず、番組は唐突に終わった。そのことが、衝撃を与えたというのだ。
こういうことおを、肩いからせて話題にしたがる者は、インテリしかいない。したがって雑誌特集は、インテリがインテリ向けに個性的見識を競い合うという、いっそう喜劇的な外観を呈した。版元はこれで儲かり、誰も迷惑は蒙っていないというのだから、むろん私が文句を言う筋合いのものではない。
川で溺れる子供を助けようと、泳ぎ自慢の男衆がたくさん飛び込んだ。でも、彼らはそれぞれの泳ぎの型で野次馬から喝采を浴びるのに熱中し、当の子供を見失った。そういう話が、太宰治の『ロマネスク』という小説にあったが、溺れている子はいないという点で、この話と雑誌特集とは違っていた。
(『倫理という力』 前田英樹)
こういうことおを、肩いからせて話題にしたがる者は、インテリしかいない。したがって雑誌特集は、インテリがインテリ向けに個性的見識を競い合うという、いっそう喜劇的な外観を呈した。版元はこれで儲かり、誰も迷惑は蒙っていないというのだから、むろん私が文句を言う筋合いのものではない。
川で溺れる子供を助けようと、泳ぎ自慢の男衆がたくさん飛び込んだ。でも、彼らはそれぞれの泳ぎの型で野次馬から喝采を浴びるのに熱中し、当の子供を見失った。そういう話が、太宰治の『ロマネスク』という小説にあったが、溺れている子はいないという点で、この話と雑誌特集とは違っていた。
(『倫理という力』 前田英樹)
フェティシズム
ほんらいフェティシズムという言葉は、18世紀の原始宗教に関する研究から広がったものだ。フェティッシュとは「未開人」があがめる「神の宿った呪物」を指している。19世紀になると、今度はマルクスがこの言葉を用いた。資本主義社会においては、あらゆる物が、交換可能な使用価値を帯びる。そのような状況下でこそ、ただの紙切れにすぎない紙幣にも、何か一定の価値が備わっているかのような錯覚が生まれてくる。この感覚が「フェティシズム」なのだ。
(『生き延びるためのラカン』、斎藤 環)
(『生き延びるためのラカン』、斎藤 環)
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