都市化の進展は、日常生活のなかにおびただしい雑音を引き入れた。一昔前までの人間ならとても耐えられようもない音でも、現在の人間なら耐えることができる。静かな農村や地方都市で暮らした人間は、大都会へ出てきたばかりの頃には、雑音ノイローゼにかかる。それもしばらくすると、都会の音に慣れて、雑音に対する耳おの許容度が高まる。
都市は、人々に雑音に対する忍耐を強制する。人々は強制的に、しばしばそれと知らぬ間に、さまざまの音に慣れていかなければならない。雑音に慣れるとは、音の暴力性になれることである。音の暴力性になれることは、音以外の物がもつ暴力性にも慣れることである。こうして、都会生活者は、暴力に対する過敏な反応を失って、どこまでも暴力的な現実を受動的に受け入れていくようになる。このような暴力不感症は、極めて恐ろしいことではあるまいか。
自動車公害が非難され、自動車がひきおこす殺人や騒音の弊害が告発されている。しかし、そうしたい告発の声もむなしく虚空に消える。自動車事故で人が死ねば、当事者も傍観者も一瞬はシュンとする。しかし、それで終わりだ。自動車天国となった日本列島では、人々は非業の死に慣れてしまっている。非業の死への不感症の基礎には、音の暴力性への不感症があるのだ。
生活のなかからできるかぎり不必要な音をなくそうとする健全な感性が生きていたとすれば、これほど自動車文明が栄えることはなかったであろう。西欧に比べて交通網が非常に発達しているにもかかわらず、個人所有の車が不必要なまでに多い日本の現状は、きわめて異常である。この異常さを支える理由は多々あるだろうが、そのうちでももっとも大きく、しかもしばしば忘れている理由は、音の暴力性への無感覚である。
(『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司)
0 件のコメント:
コメントを投稿